くまさんのタオル(日本製・泉州タオル バス・フェイス・ミニタオル・スリムバス・ハンカチ ・ケット)

「くまさんのタオル」誕生と歩み

くまさんのタオル誕生と歩み

 

 

その1、泉州タオルとの出会い

 

2013718日、愛娘が誕生しました。

 

元々、大阪の助産院での里帰り出産の予定でしたが、待てども待てども、なかなか下りて来なくて、出産予定日は妻の誕生日と同じ、74日だっだのですが、結局14日が過ぎてしまい緊急入院帝王切開という運びとなってしまいました。

 

出産直後の娘は、筋力が弱くて呼吸するのも困難でした。

原因も分からぬまま、1ヶ月ほどそのまま入院する事になってしまいます。

 

その間、大阪にいる祖父母も何度も何度も病院に足を運んでくれました。

 

そんなある日、祖父が病院から出て、すぐ目の前の駅にフラッと立ち寄ると、改札前のスーパーの入り口でタオルの催事販売をやっているのを見かけたのです。

大阪商人50年以上の祖父は、「コレや‼️」と思ったそうです。

早速、友人・知人を当たり「泉州タオルのメーカー(織屋)を紹介してもらい、そこから🅱️品の泉州タオルの販売を始めることになりました。

 

祖父母の店は、お布団屋から、婦人服、雑貨、今では靴も取り扱っています。

靴は、アサヒのメディカルという、「膝・腰の痛みを助ける靴」というものです。

アサヒのメーカーさんが驚くほど、祖父母は売り上げています。

 

そんなバリバリの商売人が目をつけたのが、この「泉州タオルの🅱️品」だったのです。

そして、その出会いは、娘の入院無しにはあり得なかったのです。

 

 

その2 、くまさん家の大ピンチ

 

娘が産まれた2013年、私(くまさん)は、プロミュージシャン(パーカショニスト)として活動していました。

当時在籍していた北島三郎さんの劇場バンドが、翌2014年の博多座公演を最後に劇場公演を引退されることが決まり、バンドも解散することになりました。

 

それまで私は、島倉千代子さん・小林幸子さんのツアーメンバーに参加させていただき、新宿コマ劇場などの一ヶ月公演、テレビ番組、イベント等で演歌,歌謡曲のバックバンドを務めさせていただきましたが、この頃になると、音楽界もかなりリストラが進み、バンドの規模も段々と縮小していきました。

 

娘が産まれてから半年ほど過ぎた頃に、レギュラーの仕事を失うことになり、次のバンドも、時勢柄、期待できない状況でした。

 

娘も、当時はまだ病名も付かず、いつどうなってしまうのかも分からないような中、妻は、泣くことも、母乳を吸う事もできない赤ん坊を、文字通り寝ずに世話(看病)をし続けていました。

 

一方私は、それまで夫婦共働きでどうにか暮らして来たので、急に1人で3人分の経済を賄わなければならなくなったのでした。

 

 

その3、くまさん転職へ

 

北島バンドの解散は、随分前から聞かせてもらっていたので、次の暮らし方を準備する時間もありました。

 

娘が産まれた後も、音楽の仕事が続けられないかと、バンドの仕事以外にも作曲家・シンガーソングライターもトライしましたが、その時は何処の扉も開く事はありませんでした。

 

それと同時に、音楽関係以外の仕事も模索していました。

 

昔の話になりますが、私は高校卒業後にミュージシャンを目指しながら、喫茶店でアルバイトを始めました。

コーヒーを自分で点(た)てられるようになりたかったし、正直、喫茶店のマスターにも少し憧れもありました。

最初のお店を辞めた後、店長募集のお店に雇っていただきました。

そこで、喫茶店の食事やデザートメニューを習得させていただきました。

 

音楽だけで喰っていくのは、なかなか難しくて、他にも色々なバイトをずっとやり続けたバンドマン生活でした。

 

そんな経験から、自分でスケジュールが自由に組める副業を始めようと考え、北島バンド解散後は移動販売のクレープ屋と、バンドの仕事の二足の草鞋を履くことにしたのでした。

 

「クマさんのクレープ屋」という屋号で、それなりの人気もあったのですが、ゴールデンウィーク明けの頃から、暑さが増していくと毎年売上げが下がってしまいます。

また、軽自動車ベースでは、1人で全ての業務をこなさねばならず、日販の限界が問題になりました。

 

しかも、その少ない限界額にでさえ、平日の販売では達さないのです。

やらないと分からなかった事とは言え、悶々とした日々を過ごしていました。

 

ある日、帰りの運転中に、景色が急に霞んで、「あれ?見えない!」と思ったら、勝手に涙が出ていたりするのです。

そんな日は、一日や二日ではありませんでした。

 

妻も日中は、たった1人で反応のない赤ん坊の面倒を見、私が帰ってきたら、次の日のために全ての道具の洗い物をして、寝る時間などなかったと思います。

 

ある日、一家心中が頭をよぎり、帰ってから妻に話すと、「私も今日そう思った。。。」と。

それが、2回ありました。

同じタイミングに起きていたのです。

 

この頃が我が家のどん底でした。

 

今では、死ななくって良かったな〜、とつくづく思いますがね。

良い思い出、経験でした。

まぁ、出来ればもう経験したくないですけど💦

 

そんなこんなで、クレープ屋を3年弱やっていたある日、お父さん(義父)から、電話がかかってきたのでした。

 

 

その4、くまさんのタオル誕生

 

「くまさん!タオルケット売ってみーひんか!?、え〜のがあんねん。」お父さんの第一声でした。

後で聞いた話ですが、まさか私がこの話を受けるとは思ってもみなかったそうです。

(そして、両親は常に我が家の事を心配してくれていました。)

 

その場では決められず、「とりあえず考えてみるわ。ありがとう。」と、言って電話を切りました。

 

心が決まるのに然程時間はかかりませんでした。

私は、それほど追い詰められていたのです。

 

早速、お父さんは自分の店の🅱️品のタオルと、手作りの木の台をスペースワゴンに満載に詰め込んで、現場に来てくれたのでした。

20175月の事です。

 

場所は、クレープ屋でお借りしていたスーパーの入口側の駐車スペースでした。

初日のオープンから大盛況で、2人でビックリしたのを覚えています。

程なく、雨になりそうだったので、慌てて積み込み終了にしましたが、「日本製・泉州タオルが🅱️品で安く買える」という商法に、確信した日でした。

 

クレープと違って、場所を取る商売なので、暫くの間は出店先も見つけられず、ずっとスーパー前の駐車場をお借りして、炎天下の中で販売していました。

 

流石に、一月近く毎日出店していると、売れなくなっていきましたが、その時の私には、これだけしかありませんでした。

夏の陽射しに晒されて、毎日毎日商品と什器を出して、積んで。帰宅後は、次の日の仕込みで、11枚検品をして、目方も計るように変わっていきました。

 

妻や両親の助けも借りて、徐々に出店場所も増えていきました。

 

あの時の記憶があるから、少々何かあっても「アレに比べれば、なんでもない❗️楽勝、楽勝‼️」と、思えるようになっていました。

 

その後も、コロナやら何やら色々ありましたが、2023年の今、山梨県北杜市に移住して、ありがたい事にこちらでも催事イベントをやらせていただくように進んでいます。

感謝、感謝、大感謝🙏

 

 

その5、大感謝

 

赤ん坊は、産まれる時に自分の食い扶持を持って産まれてくると、申します。

 

正に、娘は予定外の大病院で産まれることで、義父にタオルを見せ、私にタオル屋をやらせました。いや、やらせていただきました、と言った方が正しいです。

 

娘は、自分の食い扶持だけでなく、我が家の食い扶持まで運んできてくれたのです。

ありがたや、ありがたや。

本当にありがとう。

 

今度はその恩を、皆様に上質なタオルを低価格でご奉仕するという形で、返していこうと思っております。

 

そのために、固定店舗を持たず、従業員を雇わず、私1人で受け持つ事で実現しております。

実際に、アルバイトから社長までの業務を1人でこなすのは、時間的にも体力的にも厳しい事ですが、何とかこの形を続けたいと思っております。

 

 

素晴らしいタオルを作ってくれている泉州タオルの皆様にも感謝、感謝です。

ありがとうございます。

 

くまさんのタオルを買っていただいた皆様にも感謝、感謝です。

ありがとうございます。

 

私にこの役をやらせてくれている全てに感謝、感謝。

本当にありがとうございます。

 

妻とよく話すのですが、美味しいラーメン屋が、評判を呼んでチェーン化すると、途端に不味くなる。それだったら、儲けが少なくても、身体が大変でも、一軒のラーメン屋でいたいね、と。

 

私は、「くまさんのタオル」を力続く限り、精一杯務めさせていただきます。

 

どうぞ、末長く「くまさんのタオル」を、よろしくお願いします。

 

 

 

代表  秋島 啓二

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